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鎌仲ひとみ氏インタビュー(2015年10月と12 月) 福島、メディア、民主主義 —ドキュメンタリー映画が持つ可能性

August 15, 2018
Volume 16 | Issue 16 | Number 3
Article ID 5191

インタビュアー

平野克弥(カリフォルニア大学ロサンゼルス校歴史学部)

3.11以後に映画を作ることの意味

平野:今日は、インタビューに応じていただいてありがとうございます。鎌仲さんは、原子力発電や被爆の問題をずっと追ってこられました。鎌仲三部作と言われる『ヒバクシャ』(2003)、『六ヶ所村ラプソディー』(2006)、

『ミツバチの羽音と地球の回転』(2010)は3.11以前、最新作『小さき声のカノン』(2015)は3.11以後に取られたドキュメンタリーです。福島原発事故は鎌仲さんの映画制作にたいする姿勢、また考え方を変えましたか。

鎌仲:まず核をめぐる 3 部作を作ってきたという根底にあるモーチベーションは、被曝を減らしたいということです。人類が核を使えば使うほど、まあ、核の利用は平和利用と言ったり戦争の抑止力と言ったりするけれども、地球全体をすごく汚染してきたわけじゃないですか。 

だからその汚染が暮らしの中にどんどん広がってきて、未来世代が最初に犠牲になっているというのを私は『ヒバクシャ』製作中にイラクで知ったから、方向転換しないと人類は自分で自分の首を締めていくということになるし、私自身が未来を断ち切られ亡くなっていく子供達にすごく会ったので、何かできることをしようというところから始まったんですよね。

それで、何ができるかとか、どうやったら現状を変えることができるか、考え、対話し、映像を撮っていたら映画を 3 本作っていた。まず現状をどうとらえるかということを探っていく中で、目の前に立ちはだかっているプロパガンダ的な情報操作であったり、経済的利益に翻弄されて原発を押し付けられて生活基盤の選択肢を奪われたり、あるいは情報が届いていなかったりという現実がよく見えてきた。あるいは自分たち自身が民主主義の主権者であるという意識が希薄だから、『ミツバチの羽音と地球の回転』で取り上げた祝島の例ですが、中国電力とか政府、つまり権力を持った人たちに抵抗できないと思い込んでいる。そうやって、いろいろな課題がはっきりしてきて、その一つ一つ描きながらポジティブな解決方法を提案していきたいなと思っていた。

でも3.11で最悪の原発事故が起きて、現実のほうが先行してしまったから、もう間に合わなかったなっていう無力感に苛まれちゃったんだよね。

平野:間に合わないというのは、自分が今まで作ってきた作品が、起こってしまった事故に対して、ある種何もできなかったということですか。

鎌仲:うん、そうそう。だって誰も被曝させたくないと思っていたのに、3.1

1の事故によってものすごく大量に被曝したわけでしょう。今も、被曝し続けて いるしこれからもずっとし続けるわけだし。一番汚染されている福島を中心に見 ると、また震災前の安全神話という同じパターンのプロパガンダが席巻していて、みんなリスクに気づかないままに自分を放射線に晒している状態が続いている。

ある程度時間がたてば被害が顕在化していくので、危機感も生まれて焦燥するんだけれど、私はテレビのようなマスメディアを使わないので、いっぺんにその人たちに現状を届けるわけにはいかないじゃない。

だから何をやってもこれはダメかも知れないなって。何をしたらいいんだろうかなって思ったんだけれど、やっぱり事実を知らなきゃダメだという結論にいたった。

記録されない事実は存在しないと同じでしょう。結局いろいろなことを記録して、こういうことが行われてきたんだということを把握しないと、すべて忘却され、 過去も現在も未来もある特定の人にとって都合がいいように書き換えられてしま う。戦争をめぐる記憶なんて一番そういう問題をはらんでいるでしょう。

それで事実に基づいたすごくメッセージ性の高いものを作ろうと思ったんですよね。だから『内部被爆を生き抜く』という作品を先に作ったの。映画の前にツールとして被曝のリタラシーを上げることを目的に作ったんです。

映画制作に関しては、みんなすごく答えを要求しているような気がしてならないのね。「じゃ、どうすればいいのよ」みたいな感じで、すごくインスタントなファーストフード的な簡易な答えを求めているような気がした。特に震災 3・11 以降は。

私自身もそう思ったし、すぐに役に立たないんだったら無駄なんじゃないかな、という風に思ってしまって、すごい無力感があった。それでも、一人でも二人でもきちんとした事実を丁寧に伝えていくことが一番大事かなと思い直すようになって『内部被曝』を作った。

福島のような危機的な状況に直面しているときは、世界が瞬時に改善に向かうとかそういう奇跡が起これば、それに越したことはないなどと思ってしまう。

だ自分がどういう風に今の現実に対して何ができるのかと、それが結果としてすぐに役に立たなくても、できることから地道にやっていくしかないんじゃないかなっていうふうに思えたので。

平野:話を聞いていて 2 つポイントが浮かび上がってきたように思います。ひとつは権力を握っている者、まあお金でも政治でもいいんだけれど、そういう人たちは、きちんとした記録(自分にとって都合が悪い記録)を残さないことによって生き延びていくわけですよね。だからそういう記録を残さないような形で、事を進めていきたいという態度への抗い、それに対して、そうではなくこういう事実があちこちに残っていたんだという記録を残していくことが大切なのかなということ。

もうひとつは、震災、特に原発事故が起きた後、政府はすぐにプロパガンダを始めるわけですよね、まず福島をはじめとして被爆の可能性に対する新たな安全神話みたいなものをね。だからそれに対抗する形で記録を残すということは、すぐには浸透しないけれど、政府が流すプロパガンダとは違う事実を流通させていくことはできる。それは、事実が隠蔽され、人権が踏みにじられるという緊急事態に対して、迅速に確実に動くという政治的介入の意味を持っていた、という気がします。

つまり、鎌仲さんはドキュメンタリー製作をとおして第一に歴史への介入(記録、記憶をきちんと残す)、第二に現状への介入(政府と電力会社、そしてマスコミ のプロパガンダに抗う)をおこなった。もしそういう動きがなかったら、みんな が安全神話に飛びついていた。

鎌仲:まあ、実際飛びついているし。彼ら(政府、東電、メディア)の力のほうが圧倒的に強いから。

平野:確かに。政府はいつも簡単な解決策があるような話ぶりをするわけでしょ う。「除染すればお家に帰れますよ」、とか「被爆は心配する必要がありません」とかね。みんな、「ほんとかなー」という懐疑をもちながらも、やっぱりその安 全神話に飛びつきたいわけよね。それに対して鎌仲さんは、いや、現状はそんな 単純なものじゃなくて、まず何が起こっているかちゃんと把握しようよって、そ の理解から始めなければいけないというメッセージを送りたかった。

鎌仲:そうだね。でもそれすらほとんどの人がまだできてないから。そういう意 味でオルタナティブなメディアを作って、映画というメディアを通して人と繋が っていこうとする時に、今一番苦労しているのは、どう持続させるかということ。お金の面でも、ネットワークという面でも。

東京大学の学食で「福島プレート」というか、「浪江町ディッシュ」、なんかそういうのを一食 5 百円でランチを出している。福島のお米と野菜中心のランチ

で女子大生にものすごい人気で瞬く間に完売して、それを食べた女子大生たちは、

「だって政府の言っている数値以内なんだから安全なんでしょ」っていうわけ。だからそっちの方が安心してたべられるということを言っていて。原子力発電を維持したい体制側は徹底して事故の卑小化をやってるいなという感じなのよね。

そのような意識をもっている人々に、どのように映像をとおして語られていない、知られていない事実を伝えていけるのか。そのための資金は確保できるのか。

平野:内部被爆の可能性をヘルシーなイメージに作り変えて女子大生に売り込むというその戦略は、エゲツなく恐ろしいですよね。しかも、福島の食品を消費することで、わたしも復興を応援しているのだという道徳観を満足させる。

鎌仲: 3・11以降、日本の中の言説もすごく変質したような気がする。嘘をそれは嘘だよねってわかっているのに、その嘘を受け入れてしまっているような心理状態が生まれた。

平野:わかります。どっか嘘くさいなと思いながらも、聞きたいこと、安心させ てくれることに飛びついちゃうわけですよ。震災後、「復興」「絆」「がんばれ 福島」などの言葉に囲まれながら、物事をきちんと考えられなくなってきている。

鎌仲:そうそう。

平野:だから、即答、すぐに答えを出してくれる人に理屈なしに飛びついてしまう。

鎌仲:だからそれは、もうゲームをやっている感覚とすごく重なって、反射神経で生きていくというか。ストーリーというか、コンテクストの中で、歴史とか、なぜこうなったのかとか、因果関係を振り返ったりとか、この後どうなるのかなとか、そういう時の流れ、時間の経緯のなかで物事を考えるのではなくて、目の前の瞬間しかないような生き方が蔓延している。

そのような刹那的な雰囲気のなか、今の日本の安倍政権は、与党が圧倒的多数なので、やりたいことは何でもできちゃう。これまで戦後 70 年できなかったことを一気にやってしまおうという。それをわかっている人たちが見ると、「ああ、どうしたらいいんだろう、もうやばいよ」と思いながらもやっぱりそこにズルズル引きずられていくというか。

例えば武器輸出三原則が緩和されて日本は武器を売ってもいいと。もう三菱は戦 車をどんどんと作ってどんどんと売ってもいいというようなことになっていると いうことに気がついているというか、自覚している日本人なんかほとんどいない。

為政者は自分たちのやりたいことは進めているんだけれども、結局はそのことをブラックボックス化していて国民はそれを知らないで生きている。それで、本当に自分たちに火の粉が降りかかってきたときにはもう遅いっていうことを知らずに。なんか結構まずい状態に入ってきているとわたしは見ているの。

平野:「戦争のつくりかた」の話になっちゃいますよね。(ビデオのリンク

鎌仲:そのような雰囲気あるいは時の流れに巻き込まれないようにするために、どういうふうにやっていったらいいのかというのが一つの課題なんだよね。

だから、3.11 後に映画の作り方が変わったかと聞かれたら、根本的なところでは変わってないんだと思う。マスメディアの流していく情報にたいして、私の映画はやっぱりコンテクストを持って物事の文脈全体を理解すること、その中で自分はどこにいるんだ、ということを理解することを目指している。それによってしか問題解決はない。だから、映画というスタイルは私にとってすごく重要なんですよ。すごく必要なんだよね。

平野:実は歴史的に物事を考えるということは、同じことだと思います。コンテクストの全体性の中で今置かれている自分たちの時代状況を考えること、その位相をきちんと思考すること、それが歴史的な考え方だと思うんです。鎌仲さんがやっているドキュメンタリーの作り方に共通している。

つまり、みんな焦っちゃって足をすくわれそうな時だからこそ、持続可能なものの見方というか、全体像を失わないような発想というのはもっと必要になってきているのかなということですね。

鎌仲:そう。そして、ドキュメンタリー映画は、きっと歴史も同じだと思うけれど、自分の置かれている立場の意味、社会的な意味を考えさせる媒体だと思うんだよね。3・11 以前は、自分たち(日本や他の「先進国」に住む人々)がなぜこの豊かさの中に居られるのかということを問うこと、それは、他の世界を貧しくさせながら自分たちは豊かでいるということの加害性というか、豊かな社会に生きているということは、ある意味で私たち一人一人が加害者なんだという、そういう現実に気づくことに焦点をおいていた。私が『ヒバクシャ』で発したかったメッセージの一つはそれだった。

平野:『ヒバクシャ』はある意味で、南北問題の弊害を取り扱っている映画でもありますよね。

鎌仲:そうなんですよね。踏みにじられていく人達はずっと踏みにじられて。それは構造的な問題なんだよね。たんなる偶然ではなくて。

平野:そう、その不均衡で非対称的な世界構造がある。

鎌仲:そう、そうなんですよね。非対称。パリで 120 何人殺されたら世界中の元首がね、「先進国」のメディアが一斉に「大悲劇」として注目する。でも 60 万人のイラク人の子供がアメリカや NATO の爆撃、また内戦の犠牲になってもニュースにもならない。とてつもない非対称性が世界に出来ちゃっているわけでしょう。その歪みを理解しないとなぜテロが生まれてきているのかも理解できない。

平野:全くその通りだと思います。

鎌仲:その世界の歪みに、自分が歪ませる重石として参加しているんだったら歪みを戻していく、ねじれを戻していく側に一人一人が気づいて戻ってくるということがとても大切なんだと思う。これは、福島と東京の関係性にある歪み、また都市と地方のそれと無関係ではないんだよね。

平野:その関係性や構造性を思考していく、ということはすごく大事なことですよね。『ヒバクシャ』はそれに大変成功していると思います。

鎌仲:そういう風に見てもらえると本当にうれしい。

 

情報コントロール:国家と原発産業

平野:『ヒバクシャ』は、原子力産業は日本でも、アメリカでも、ソ連でもかなり周到に核のリスクについての情報のコントロールをおこなっている現状を伝えています。とくに、事故が起きた後に起こる被曝の現状については、隠蔽のシステムが出来上がっている感じを受けました。

鎌仲:そうですね。チェルノブイリが起きた時に、ものすごく被害が広がりました。被曝が恐ろしいものだというイメージが、チェルノブイリからかなりの量で発信された。国際的に原子力を推進したい人にとってみると、チェルノブイリは完全な失敗です。

つまり、被曝の状況について作品もたくさん作られたし、障害を持った子供が生まれるとか、次世代にも確実に被曝が継承され影響も出てくるというようなことが、はっきりと見えてきた。チェルノブイリと聞いただけでみんな原発事故というようなイメージを世界中に構築してしまったわけです。

あれを反省して、情報のコントロールを徹底させていったような気がします。平野:それは、国際的にということですよね。IAEA なども含めて。

鎌仲:そうです。IAEA って日本とすごく密接に結びついているので、IAEA の中枢と日本で原子力を進めたい人たちはしっかりと繋がっています。だって世界中の原子力産業の中での日本のポジションはすごく重要ですから。

まずウェスティングハウスを買収しているし、アレバを買い支えているし、そういう意味では今や世界中の原子力の中枢は日本に移ったと言ってもいいくらいです。アレバはフィンダンドのオルキルオトの原発建設で大失敗をして大赤字を出して、経済的に逼迫しているところを三菱重工が支えているわけですから。

ただ、平野さんもご存知のように、原子力のリスクや被曝にかんする情報コントロールのルーツは原爆投下以降の政策に関わってくることを忘れてはいけないと思うんです。つまり歴史的に見て継続性があるんですよね。広島・長崎に原爆を落とした直後から、あるいは原爆を開発しているそのプロセスの中でも、被曝を過小評価する、被害を隠蔽するということは大々的にずっと行われてきたわけですから。

平野:3.11で日本政府があれだけ迅速に山下俊一のような御用学者を福島に送り何十箇所で講演をさせ、またその講演に随行していた新聞とかラジオとかテレビとかが、その講演をそのままなんの批判もせずに垂れ流したことも、はやり情報コントロールの一環とみていいのでしょうか。

鎌仲:はい、私はそう見てます。やっぱり山下俊一という特異なキャラクターが重要な意味を持っています。つまり彼が世界的なチェルノブイリの研究者で、彼を論破できる人は少ないということです。だって彼が一番大規模な疫学調査をチェルノブイリで敢行しているわけですから。ただその五億円もかかった調査の費用は笹川財団から出ています。

政府も東電もそういうことはよくわかっているわけですよ。しかも彼は甲状腺学会のトップで、もうこれ以上の人はいないだろうという人を送り込み、的確に布陣をはった。そしてそれをメディアが垂れ流すという流れ。福島原発事故の直後から続いている基本的な情報流通の構造はそこでできた。

平野:しかし、山下さんのような研究者は、そのような安全神話の情報を作り上げ、流通させるということの意味、つまり真実を隠蔽することの意味をわかっているはずですよね。

鎌仲:はい、そうだと思います。おそらく、山下さんたち御用学者は、政府や産業界が持っているコラテラル・ダメージ的な考え方に賛同してしまったのだと思います。彼の悪名高い「私は日本人だ。日本の国が決めたことは守るんだ」という発言は、そのことを示唆しているのだと私は見ています。つまり放射能汚染と被曝を全く意図してなかった付随的な不幸な事件として片付ける。とくに、避難

させたりすることによって、コミュニティーが崩壊したり、あるいは社会にパニックが起こるというような全体的なダメージを考えれば, そのように処置するのが妥当だろうという発想です。

平野:事故を構造的な問題としてではなく、つまり刑事上の責任が生まれる業務上過失致死としてではなく、偶然がもたらした致し方ない付随的な出来事として処理する。それによって、より大きな利益とそれを生み出してきた構造を護持するということですね。金銭的利益もそうだけれど、国が混乱に陥らないためにも彼らは犠牲になってもらわなければならないという発想ですね。

鎌仲: そうです。その発想は、原爆を落として 20 万人ぐらいの人が死んでしまうかもしれないけれど、アメリカ人が 100 万人死ぬよりいいじゃないか、ということをアメリカがいってきたこととも重なってくる。つまり、広島と長崎の犠牲者は戦争を終わらせるために致し方ない捨て石、コラレラル・ダメージとして片付けられた。

平野:ぼくは、戦争体制と原発体制の構造的な類似性はそこにあると思ってきました。あるいは、近代国家は、独裁国でも民主主義国家であっても程度の差はあれ、犠牲が出ても国と産業が栄えればそれは必要悪なんだという発想を常に内在させてきたとおもうんですね。必要であれば国民に犠牲を強いるような構造が、実はいわゆる「繁栄」や「国権」を生み出し維持する構造の必要条件として常に機能している。産業の繁栄や国益のためには、犠牲は仕方がないのだという発想を英語では「national sacrifice zone」というのですが、そのような発想がいわゆる民主主義社会のなかでも機能してきた。そして、犠牲になる人々は、ほとんどいわゆる人種的・社会経済的な弱者です。彼らには人権の保護はあてはまらないような、法律がそこで一時停止してしまうような例外状態の構造が、戦争にも原発にも用意されている。原子力産業がおこす事故にたいして、刑事責任が問われないのもまさにそれが理由だし、国家が国のために死ぬことを人々に求めても、殺人罪に問わることはありません。それどころか、そのようにして死んでいった人々は、国民の英雄として美化され称えられる。『ヒバクシャ』はそのような暴力の構造がグローバルなスケールで展開されていることを見事に描いている。

鎌仲:ほんとうにその通りだね。わたしもそこまではっきり概念化して言えなかったけれど、それを常に感じながら映画を作ってきたと思う。原子力に厄介なリスクがあると言うことを承知しながらも、それでも原子力の持っているチャームというか魅力というものに惹かれて推し進めていく人たちの中には、自分がそういうことをするための大義名分というか大きな理由が必要なんだよね。ドキュメンタリー製作に関わっているとすごくそれを感じるんですよね。

平野:『ヒバクシャ』で描かれる ハンフォードのケースを観ていて感じたのは、アメリカは「これによって我々はソビエトに勝った」と。「自由世界を守った」 という大義名分がある。

鎌仲:そう、そう。

平野:それからもう一つは、科学者としてデータを見れば、実際そんな体や健康にそんなに害を与えているはずはないんだと言い切り、科学知の優越性を主張する態度。でもその一方で、おおくの住民がガンで死んでいっている。

鎌仲:その因果関係は目に見えないからね。見えなくさせることができるから。 またその犠牲になっている人に対して、やっぱりさっき平野さんが言ったとおり、差別の構造がある。

平野:まあ、かわいそうな人たちだけれども、これによってアメリカという国と世界が守られたんだという発想。これくらいの犠牲は仕方がないという発想がやっぱりあるんでしょうね。やっぱり国策というものが作り出す状況では、人権というものを完全に犠牲にそして無視する可能性が前提とされている。原子力産業に関していえば、軍事力と産業的利益が密接につながっている。核兵器力を保持すると同時に、産業はすごく儲かるという話ですよね。例えば原子力発電所は 1 日中、これは 24 時間動いているわけでしょう。

鎌仲:確かに一旦できてしまったものを動かせば、100 万 kw 級であれば、日本では 1 日一億と言われていますけど。だけど原子力産業はもうアメリカでは斜

陽じゃないですか。もう一基もたってないし、あまりにもリスクが高すぎるから、ヨーロッパでもアレバの失敗によって明らかになったし。

だからドバイとかサウジアラビアとか、今石油で儲かっているところが、未来の資本を食いつぶす前に原発を建ててしまって。だって 40 年しかもたないんですよ。実際 40 年以下じゃないかな。それを解体するのにもっとお金がかかるわけじゃないですか。

それに、アメリカの科学者たちは、再処理をする意味は全く無いと。だって核弾頭を解体すれば出でくるのはプロトニウムだから。今さら核爆弾を持て余しているアメリカにはプロトニウムは必要無いわけだから。しかもプロトニウムを燃料とする原子炉を開発する予算を考えたり、年月を考えたりすると、世界中で失敗しているわけだし。日本だって「もんじゅ」が爆発事故起こしたまま大きな負の遺産になっているわけだからもう世界は変わった。

エネルギーに関しては、思想の根本、つまり発想そのものが変わってきているのに、日本は相変わらずそれにこだわり続けている。でも、日本はお金儲けができる仕組みを作ってしまったから固執しているんですよ。ただ、全体を考えれば損しているんです。

平野:でも一部の推進したい人たちにとってはまだお金儲けができる仕組みになっている。

鎌仲:うん、そうですね。そういう制度を作ってしまったわけだから。つまり、年間だいたい 6 千億円ぐらいあるエネルギー開発予算の、6〜7割を原子力に

30 年以上にわたって国家は振り分けてきて。

例えば『ミツバチの羽音と地球の回転』の中に出てくる上関原発では一基立てるのに 4,500 億円かかるけれど、そのご褒美として中国電力にエネルギー開発予算から一千億とか 500 億とか何年かにわたってでて行けば、タダ同然で建てられるし、なおかつ設備投資としてそれを計上してプラス 3.8%の利益を乗せて電気代に上乗せできるという制度も作ってある。

あと電源立地交付金と言ってそういうのも税金から支払われるから、電力会社は何の痛みも無いどころか、やればやるほど儲かるという、美味しい濡れ手に粟状態を原発に関しては作り出したのが、日本で原発がどんどんどんどん増えていったことの最も大きな要因ですよ。

平野:これによって街も村も潤うし雇用もできるということを過疎化が進む人々には言い続けてきた。そして、日本は資源が貧しいから原発に頼るしかないと。

鎌仲:そう、日本の経済力を支えるために電気が必要なんだからと。経済成長支えているのは原発なんだからと。でも、3.11 以後原発を全部止めたって、日本は電気不足などにはならなかった。それなのになぜ、また再稼動なのかと。この地震の多い国で。695 日間、一基も原発なしで十分やれた。(笑)

平野:世界的なレベルからすれば、原発のない生活だって、日本での生活は物質的には過剰なくらいに潤っていたわけです。そして、ハイレベルのエネルギー消費を続けた。

鎌仲:うん、過剰に潤っています。さっきも言ったように、第二次世界大戦直後のすごい貧しい暮らしの中からでてきた、より多くエネルギーを消費する暮らしが、より豊かな暮らしなんだという固定観念が今だに消えない。

だから 695 日間も原発なしで電力統制もなく節電もしないで、世界的にもすごいハイレベルなエネルギー消費の中で暮らしていながら、今だに原発反対をする

人たちに向かって、江戸時代に戻るわけにはいかないんだという役人や御用学者、経済界の人たちが、日本には山のように存在するんですよ。

だから意識の切り替えがものすごく難しいんですよ。それまで何度も刷り込まれてきた深層の意識の底に書き込まれちゃっているって思うんですよね。

平野:メディアの役割について話していただけますでしょうか。今おっしゃった原発政策や経済成長に対して刷り込み、いわゆる自然化されてしまった意識にたいして、日本のメディアはほとんど何も問題にしてこなかった。今回福島の事故が起きたときに、メジャーなメディアの反応、あるいはそれ以後の報道をどう見てらっしゃいますか。

鎌仲:本当に真剣にやっているのは東京新聞ぐらいですよね。あと中日新聞かな。それ以外はそんなにやっていないんじゃないかなと思うんですよね。まあ、書か ざる得ないですよね、事実としてはね。はい 1 号機爆発しました、はい 3 号機

爆発しましたみたいな。でもそれ以降、放射能汚染がどういう風にとか、あるいは核燃サイクル計画をどうするのかというツッコミが全然ないし。

あ、朝日新聞では「プロメテウスの罠」っていうのをやってますね。あれはなかなかいいですね。ただ現状は、もう日本人は福島のことは飽き飽きだと。これまで全く書かれてこなかった原発の情報が、(事故後)堰を切ったように、ダムが崩壊したようにが溢れ出てきて、毎日毎日そればかり見てすっかり飽食状態になって視聴率も下がるし、購買意欲も下がるしということで、陳腐化したそのスピードがものすごく早かった。半年ですね。

平野:陳腐化が忘却へとスライドしていく。

鎌仲:もうたくさんだよ、とそういう感じなんですよね。でも国がいかに救済をサボっているか、自己を矮小化しているか、政策の一つ一つが本質からずれているということに関しては、メディアはきちんと言及していないと思いますよ。

テレビなんか一切。テレビの方がもっと早かったですよね、原発のこと言わなくなるのは。今なんかもう一切ないですよ、一切。おおくのテレビ局の最大のスポンサーは、東京電力だったから。

だから 2011 年に私が何か賞を取った時に、民放のプロジューサーたちからパーティーかなんかで、鎌仲さんも僕たちの番組とかテレビに出てくださいよって言われ、まあ、出れるもんならね、って言ったら、もう東京電力はスポンサーじゃないですからって言ってたけど。

でも、一切私には声はかからないし、私のところに取材しに来るのは、フランスのテレビ局とかジャーナリストとかオーストラリア国営放送とかイギリスとかそういうところからは来るけれども、国内のメディアは一切なし。

「ミツバチの羽音と地球の回転」はちょうど 3・11 の時に劇場公開していたけれども、それについて本当にしぶしぶと書くという。メディアはやっぱり本当の意味で原発事故の重さを理解してないと思うんですよ。

だから福島の中の福島民友、福島民放、あるいは福島放送のジャーナリストたちに、なぜあなた方は、原発が爆発した後に県民に対して危険だ、避難すべきだって、これくらいのレベルなんだってね、避難すべき放射線管理区域は人は住めないんだって、なんですぐ言わなかったんだと言ったら、自分たちには知識はなかったって。政府がどういう風に言うのかを待っていてそれを右から左へ流すという全く同じことをやっていたわけですよ。

戦後の流れの中で、原子力の平和利用というお題目が力を得る中、メディアがそれが持つリスク、環境へのダメージに触ることがタブーだったから、現場の記者たちは自分が努力して取材してそれについて書いても無駄だと。絶対日の目を見ないということがわかっているからオミットするというか、自動的にそれについては自分は取材しない。そうすると知の蓄積がないし継承もされないし、何が起きているかも興味も持たないし理解しようともしない。

 

民主主義のエクササイズ:ドキュメンタリー映画の可能性

平野:鎌仲さんが核の問題とか被曝の問題とかをドキュメンタリーでやり始めようと思ったきっかけは、なんだったんですか。 

鎌仲:やっぱり、イラクに行ったことがきっかけだった。アメリカのイラク侵攻と劣化ウラン弾爆撃で、多くの子供たちは被曝した。被曝を一旦してしまうと、もう直すことはできないわけだから。今は保養することで多少は軽減できるということを私はベラルーシから学んだけれども、でもイラクの場合でもチェルノブイリの場合でもすべての人が移住できるわけではないし、ある程度の被害が起きるわけじゃないですか。

それについて私自身が理解していこうと思ってやって行くなかで、いろいろな問題が一つ一つプロセスの中で見えてきた。

理解しようと思うと歴史を遡らなくてはいけないし、原子力ムラの人たちとも会わなきゃいけないし、核燃料サイクルとはなんなのかとか、人間が放射線を浴びるとどうなるかとかを学ばなきゃいけない。でも私の場合はもちろん文献も読むけれども、現場で学ぶことがすごく多いんですよね。

平野:やっぱり「ヒバクシャ」をつくった時の経験がいろいろな意味で後の作品にものすごく影響した。

鎌仲:そうですね。あれがやっぱり始まりだからね。まず最初に原爆性核兵器を誰が何のために作ってその結果どうなったのか、ということを日本とアメリカの双方で考え、なおかつ現代の被曝であるイラクにおける劣化ウラン弾の被害とい

うか低線量被曝、慢性被曝について考えずにはいられなかった。「ヒバクシャ」製作の当時は、そのような視点はものすごくマイナーだった。

平野:なるほど。僕はその三つの場所(アメリカ、日本、イラク)を繋げた、空 間的にもそうなんだけれども時間も繋げたというのは、すごい斬新というか素晴 らしいことだったなと思うんです。普通一つの場所にこだわってしまうでしょう。

そして問題を孤立させちゃう。そうじゃなくて地球的な問題として常に構造として存在するんだということを見事に描いた作品だなと。

鎌仲:核というものを垂直的な時間の深さと空間の広がりというかホリゾンタルな繋がりの両方の軸を映画の中には持たせようと。

平野:それはやっぱり意図して。鎌仲:うん、そうですね。

平野:それはすごくよくでていると思いますよ。広島、長崎から始まってアメリカのハンフォードで、そしてイラクに行ってと、時間的なつながりと同時に空間的な広がり。

鎌仲: でもその原爆にあった人たちの中に被曝が体に現れてくる時間の経過っていうのがすごく重要なんですよね。その時間が被爆者の中にあるんですよ。その放射性物質が体の中で作用して、人間の体が変化していくっていう。それに時間は要するので、そこを生きてきた命というか人間の存在、生身の存在の軌跡を表現したかった。

平野:あ、そうですね。肥田先生でしたか。肥田先生の存在はまさにそれを体現していますよね。

鎌仲:そうなんですよね。

平野:広島被曝の語り部でもありつつ、その問題を解決する人間、それに取り組んできたお医者さんでもある。

鎌仲:そうなんですよね。でも素晴らしいのは科学者として大上段に構えているわけでもなく、目の前の患者に一人一人寄り添っていくというか。その人の人生をどのようにサポートできるかというアプローチを医者として持っている、そこがすごくヒューマンなんですよね。

平野:そうですね。イラクにもそういうお医者さんが出てきましたよね。

鎌仲:そうそう、ジュワードさん、アル・アリ・ジュワードさん。

平野:子供達がガンでどんどん亡くなっていくという現状のあまりの悲惨さに落ち込んで、そのうちハートアタックで倒れちゃうかもしれないと彼は言っていました。

鎌仲: でもイラク人というのはあの先生に象徴されるように、非常に人間的に成熟した人が多かったなぁって、私が今まで会った中では。

イスラム教って「西側諸国」では今ネガティブにとらえられているけれども、 1

日に 5 回神に向かって祈る。つまりそれは自分を内省するということ。それを

朝昼晩と 5 回、そういう神と向き合い自分と向き合う時間を持つという人たち。

私もイスラム教に関してそんなポジティブなイメージを持ってイラクに出かけて 行ったわけではないんだけれども、彼らの中にあるそういう内省的な自分との向 き合い。あとユーモアがあるというか。非常に情の深い人たちだったんですよね。

平野:なるほどね。それは確かにドキュメンタリーでもすごく自然に出てきますよ。

鎌仲:そうなんですよ。私がイラクに出かけるときに、日本で報道されていたイラクのイメージが、サダム・フセインだけを象徴的に取り上げて好戦的な人々、独裁者、暴力的、戦争好きとか、ものすごくネガティブな本当に差別的なレッテルを貼りつけてステレオタイプを作り続けている。

まあ、アメリカもそうだし日本のメディアもアメリカのメディアと同じようなマトリョーシカ状態(入れ子人形のようにただひたすら同じステレオタイプを生産し続ける)で、そのステレオタイプを自分たち自身が壊すということができないでいるというか。

だから爆撃されて当たり前と思っているイラク人が実は私たちと同じ人間で誇りもあり人権もあり加害者じゃなく被害者なんだという視点を表に出したら、

NHK は受け入れ難かった。もともとは、NHK の取材で行っていたので。(笑) はやり、「敵」は人間の顔をしていちゃいけなんでしょうね。ステレオタイプは非人間化に欠かせないイデオロギー装置だから。

平野:自分たちの作り上げてきたステレオタイプが壊されることへの違和感があった。

鎌仲:そう、そう、そう、そう。ステレオタイプを強化することでしかマスメディアは機能しない部分がやっぱり宿命的にあるかなって。もちろんすべてのマスメディアがそうではないけれど。

私はその逆でそのステレオタイプを壊していくというか、もっと立体的・多面的に現実を捉え、見せていきたい。

平野:なるほど。鎌仲さんはメディア・アクティビスト集団の「ペーパー・タイガー」にニューヨークに行ったときに出会うわけですよね。そしてそれに参加してそこで得た経験は今のような発想を得ていく上で決定的だった。

鎌仲:そうですね。ニューヨークに行く前は、日本で映画も作りテレビも作っていたけれども、そこで働いている人たちは何のためにそれをするのか、誰のために自分はメディアを作るのかというよりは、私もその一人だったんですが、作家として、あるいはテレビのディレクターとしていかにサクセスフルなクオリティーの高い映像を作れるかということの方がプライオリティーがあるんですよ。

個性も出すし、あるいはそれをどう評価されるというか。誰のためかというと自分のためにやっているわけですよ。でもメディアというのはもう一つすごく大きな役割がある。

私はテレビというよりも映画というメディアだったから余計に作家性というものが必要だというように思い込んでいたんです。だからそこの部分の行き詰まりが私の中にあった。それで、ニューヨークで「ペーパー・タイガー」に出会った時にそこに参加しているメディアの作り手になっている市民たちが全員ほとんどマイノリティーだった。

メキシコから不法入国してきた人とか黒人でしかもエイズ患者とか。あるいはヒスパニック系の労働者であったりとか。もちろん普通の中流の白人の人たちもいたけれども、そういう人たちが自分の日常の経験から本当に実現したいことを映像にしていた。例えばカナダと同じようなシングル•ペイヤーの国民健康保険をアメリカでも実現しようとか。

ところがアメリカのメジャーなメディアはそういう問題に全く関心を寄せない。だからそのコントラストが「ペーパー・タイガー」に行ったことですごく見えたんですね。この「ペーパー・タイガー」で映像を作ろうと。自分たちのメディアを作って、(既存の)メディアカルチャーへのカウンターカルチャーとして。

そのオルタナティヴのものを提供していこうとしている人たちの持っているスキルっていうのは、カメラなんて触ったこともないから、未熟だった。ただ彼らの中にはアイディアが、というか自分たちはこういうものが欲しいんだ、こういうものが必要なんだというものがはっきりとしてあるわけですよね。

でも私にはすでにスキルがあった。じゃあ、私はこのスキルを誰のために、何のために使おうと。私にとってすごくラッキーなことだったと思います。

平野:彼らの中にすごく表現したいビジョンがあったし、そのビジョンはただ単に自分の作家性とかじゃなくて、一つの問題意識に裏付けられていた。

鎌仲:そう、自分たちの問題を解決したい、メディアで解決したい。そう、問題意識はものすごくあるんですよ。でも作り方を知らないで模索していた。バジェットもないし。私はスキルはあるわけだから。しかもアメリカでそれをやるんじゃなくて振り返って日本にそういう映像の作り方がないなっていうのもすごく見えてきたので。

アメリカでは、言語的にも文化的にも限界があったので、日本で私にしかできないそういうことをやろうかなと思って 95 年に帰ってきたんですよね。

平野:その時はどういう問題を取り扱いたい、というような明確なものはありましたか。日本にもどって、こういう問題をこういうパースペクティブで斬りこみたいなという。

鎌仲: 帰国した時は、まだ漠然としていたね。そしたら突然、阪神大震災が日本に帰ってきた直後に起きて、私は仕事もないし暇だったからボランティアに出

かけて行ったんですよ。そしたら日本の問題がゴロゴロと転がっていたんですよ。家が壊れて家族が放り出されて、それまで家に囲まれて見えてこなかった日本の 家族が持っている問題が。

ちょっと段ボールで仕切られただけの体育館の避難所で私がやっていたのはアレルギーを持っている子供達のアレルギー食を東京のグループが提供してくれたので、それを車に乗せて自分で運転して配っていたんですけれど、そのアレルギーを持った子供の家に行くと、そこに家族が崩壊しているというか。男と女のジェンダーの問題もあるし、子供が置かれている厳しい環境もあるし、行政の問題もあるし、医療の問題もあったし、PTSD の問題もあったし。そういうところから始めたんですよね。

平野:偶然といえば偶然だけれど、ニューヨークで問題意識に引っ張られたメディアのあり方ということを獲得した鎌仲さんがたまたま阪神大震災に出会って。

鎌仲:出会いなんですよね、私にとって映画をつくるという作業は。私は、コンセプチュアルにこういうものとか、ああいうものとかをつくるんだという発想はしないんですよね。現場で出会う。それに自分が惹かれるか惹かれないか、ピンと来るか来ないかみたいな。そこを掘っていくというところから作品を作っているので、形而上的にはあまり考えないんですよね。

平野:でもそのあと作り始めた作品は、テーマとしては一貫性がありますよね。一貫性というか問題意識が持続的に動きつつ何かを作っているというか。

鎌仲:例えば「ヒバクシャ」を作っていくプロセスの中で次の問題が見えてきて。やっぱり深いからね、この核の問題は。現代に生きる人間とすごく色々な意味で 絡み合っているので。

だから『ヒバクシャ』の中から『六ヶ所村ラプソディー』のテーマになるべき日本の原子力産業の今、みたいなものがみえてきた。

私の場合は上映は他の誰もやらないような上映を展開しているので、例えば上映後、直接観客からのフィードバックがあって、新しい運動が立ち上がってきてその運動を記録したりとか、『六ヶ所村ラプソディー』を作って上映していく中でその人たちとコミュニケーションしたりする。

そういう中で『ミツバチの羽音と地球の回転』のような、原発をどうするのかではなく未来のエネルギーをどうするのかっていうテーマのものが必要だなって見えてきて。だからポジティブな解決をいかに提案できるかというのがこの映画の中ですごく重要になる。

平野:『ミツバチの羽音と地球の回転』を観て思うのは、もちろん、未来をこう作りましょうという明確なビジョンはないけれども、うっすらとそこに希望が見え隠れしている。決断さえすれば代替エネルギーを使ったり色々なことをやりながらボトムアップでコミュニティーというのは自立できるんだよ、という一つの可能性が提示されている。

鎌仲:その、ボトムアップというのは言葉で知っていても日本人はあんまり実現したことがない。でもスエーデンでは本当にボトムアップなので。その現場を見ると、例えば牧場主が自分の牛のウンチからメタンガスを作ってエネルギーを自給していくという構想を、地域の人たちがお金出し合ってやっているという、そういうことはすごくヒントになると思うんですよね。

国に頼らなくても自分たちの手でできるじゃないかという、地方自治の発想ね。日本は本当に地方自治が弱いから。それは今考えている中でも大きなテーマの一つかな、って思うんですけれどね。民主主義の根本だからね、地方自治は。だから、 国がとか安倍政権がどうのこうのっていう前に、自分が暮らして根ざしているところで目の前にある問題をどういう風に解決できるかどうかというのが、民主主義社会の育成には大事なんじゃないかなと。

私はあまり首相官邸前のデモには行かないで、映画と一緒に北海道の端っことか東北の端っことか滋賀県とか島根とか九州とか回っているのは、やっぱりそこが変わらなければ中央も変わりようがないと感じてきたからなんですよね。

それは「ミツバチの羽音と地球の回転」でもスエーデンで起きてるのは中央集権的な国家ではなく、地域で生きている人たちが 自分たちの力で地域をどういう風にエネルギー転換させていくかっていう地道な取り組み。

実際、中央集権的な原発政策に祝島の人たちは苦しめられていて、自己決定権というものを奪われているわけじゃないですか。そこに住んでいる人達が自分で決めるべきなのに一切それができない状態というのが。だからそこが変わらなければいけないと思っているんですよね。

平野:原発政策が一番暴力的だなと思うのは、まさにその部分かなと思っています。要するに国の論理と資本の論理がわーとやってきて、コミュニティーを、土地を、そしてそこでの生活のあり方を奪っていく。そして骨抜き化していってしまいます。これまで見たことがないお金が懐に入るんだからいいじゃないと言って地元の人たちを買収していく。でも、人が生きるということ、あるいはそれに伴う幸福感って、消費力や購買力の問題ではありませんよね。現金が入っても、食、空気、水の質や安全、働くことの喜び、自然とのふれあいのようなものがコミュニティーとともに破壊されていく。やはりそこを鎌仲さんはすごく気にされていて、民主主義とは本来自分の住んでいるコミュニティーを自分たちの決断と意志力、またビジョンで築いていくものだという信念を感じる。

鎌仲:そうなんですよね。だから今も昔も福島が直面している問題は、自治が根こそぎ破壊されているという問題なんですね。そのことは、私の映画の上映回数を都道府県別に地図にしてみると分かります。私の映画は自主上映なので、地元の人たちに呼ばれて初めて実現します。福島県での上映回数は、実はすごく少ないんですよ。

平野:そうなんですか。それは、市民グループが弱小だということですか。

鎌仲:そう。市民グループは存在しているけれどもとても弱小で、しかもすごく数も少ない。それに比べて例えば長野県なんてすごい多いんですよ。そこではやっぱり多様な市民グループがある、そして活発に地域で活動している。自治の意識が強い。そういうのがあるかないかですごく違うんですよね。

だから原発事故が起きた時にそういう多様なグループがすでに存在していたら、その市民グループが動いたと思うんですよ。情報発信とか色々な意味で、地域の中でコミュニケーションとか情報共有がすぐ行われたと思うんです。

活発な市民活動があるということは、自分と意見と違う相手と一つの目的に向かって共同作業ができるという経験と知識を積み重ねているということを意味するんです。福島ではやっぱりそういうのがちょっと足りないという気がします。それは、いろいろな複雑な歴史的、政治的、社会的、経済的要因があるのだと思うけれど、原発政策への依存体質が生み出したことでもあると思います。だから震

災後、市民グループがたくさん立ち上がってきたけれどもすぐ分断されてしまった。原発建設のために、農民たちの土地を手に入れ、彼らのライフスタイルを根絶やしにするためには、お金による分断です。コミュニティーを敵と味方に分断し、お互い戦わせた上でその土地を手に入れていく。いわゆる連帯の芽を摘み取る、連帯があったとしてもをなし崩しにする方法です。これは、六ヶ所村でも、祝島でも、福島でも起こった。

平野:なるほど。市民自治的な基盤が比較的弱かった上に事故が起きてしまい、さらに政府や東電による分断政策が敷かれてダブルで弱体化されてしまうような状況が生まれてしまったのだと。

鎌仲:まさにそうなんですよ。わたし、武藤類子さんを応援しているんだけど、 福島でかなり苦労されているなと思うんですよ。孤立させては絶対ならないなと。全国に武藤さんを支えたいという人は大勢いるので、大丈夫だと信じていますが、福島という地域の中では、すごく厳しい。

平野:彼女も言っていたのは、御用学者が事故のあとすぐにやってきて早速あらたな安全神話を広めたと。実は近所にいた人、それまで一緒に原発について脱原発のために勉強してきた仲間も説明会にとりあえず行った。そしてそこで学者たちが安全ですから心配ありませんと。私はチェルノブイリのこともよく知っているし、それに比べればこれはちっぽけな問題だから、というのを聞いたら、それまで本当に一緒に原発とか被曝について勉強してきた仲間ですらも、「素晴らしい」と拍手をして、「あの人素晴らしいね」となってしまう。だからその、ころっ、と変わってしまう瞬間を私は何度も見てきたと武藤さんは言っていました。

鎌仲:うーん。でもハンフォードでもそうだったじゃないですか。住民は、科学 者の説明を聞いて、あっそうか、大丈夫なのだとすぐに納得してしまう。連帯の 難しさというか、どういうような市民運動を展開することによって、資本だとか 権力とかの罠(お金による買収や分断、安全神話)にひっかからずに、自分たち の生き方を保っていけるのかということはすごく大きな問題だと思うんですよね。だから私が映画でやろうとしているのは、構造を見るということなんですよ。自 分が誰かを犠牲にしている構造に加担しているのだよ、そしてその構造を維持す る政策は結局、自分自身の生活をも破壊するのだよということ、つまり「明日は 我が身」ということがすぐに見えてくる。

その構造を支えるというところから自分が抜け出していくということが大事。そういう客観的な俯瞰的な視点から、今起きていることを、個人攻撃や2−3の人間に責任取らせて終わりということではなく、問題のつながりや仕組みが全体的に「あっ」て見えることが大事なんだと思うんだよね。新しい意識が生まれてこれまでの自分とズレを感じることを私は「意識の化学変化」と呼んでいるんだけど、そういうものが、ドキュメンタリーをとおして起きたらいいなと私は思っている。 

平野:鎌仲さんは、上映会を民主主義のエクササイズと呼ばれているでしょう。それは今おっしゃった「意識の化学反応」と繋がってくる。

鎌仲:そうなんですよ。時間かかるんですけどね。上映会の後にかならずディスカッションの時間をとる。時間をかけて話し合うと、観客の中からもいっぱい発言がでて、議論がカルティベートされるというか耕かされるというか。例えば、ある町で上映会をした時に、福島から避難してきた女性は、自分の夫があまりにも内部被曝の可能性に無理解だったので、子供を救うために夫とも別れなければいけなかった、それで住宅支援が切られ、夫からの経済支援も一切ないから、子供を 3 人抱えてどうやって生きていったら良いのかと発言した。そして、いまから地方行政にいって住宅支援を継続するよう陳情に行きますといった。その彼女なんて社会的なことも政治的なことも生涯にわたって一切してきたことのないわけです。彼女のような避難民はいっぱいいる。収入は中流以下ですよね、話を聞くと。 だからそういう人が今は救済されていないということを、そこにきた

100 人の観客が目の当たりにして、その暮らしの具体的なディーテールが徐々に明らかにされてくると、避難民に対する政策がすごく理不尽であり、国家のやっている無責任で犯罪的なことがそこに生々しく出て来るわけでしょう。

ディスカッションをすることで、自分はそれに対してどうするのかという問題を考えざるおえない。そこに来ていた市議会議員がいて、いや、今この人から相談されて自分も一緒に県に陳情についていくので皆さんも一緒に来てください、という話に展開していった。そうしたら観客の中で二人ほど、自分も一緒に行きましょうと言ってくれる人がいて。

平野:そうですか。上映会をとおしてお互いどのように繋がっているのか、また繋がるべきかが見えてくる。そして、自発的な「運動」が生まれてくるということですか。上映会にきていた観客がそれを観て言葉や考えを交換する過程で、あたらしい関係性を生み出していくということですね。

鎌仲:そう、連鎖がある。一緒に観るということ、そしてそれついてともに語るということがすごく大事なんですよ。

マスメディアで言っていることと、鎌仲の映画で言っていることと全然違う。これどうやって受け止めたらいいのって。何かモヤモヤとしてる。でもそのまま帰らないでちょっと待ってくださいね、と言って 30 分でも一時間でも一緒に議論したりすると、もうちょっと有機的なものとしてみんな持って帰る。

もう一つは必ずアンケートをとるようにしています。そうすると映画を観てディスカッションとか私のレクチャーを聞いてる間に、みんな自分が映画を見て感じたことを言語化するという作業をしていくんですよね。アンケートの回収率、すごい高いんですよ。ビシーとみんな書いてくるんですよ。それでまた一人一人の

中にフィードバックも起きるし。それでその上映会を企画したグループと繋がろうかなと。繋がることを私も強く勧めるんですけれども。

平野:人間同士が顔と顔をつき合わせて、しかも全然違ったバックグラウンド、例えばこの方は結構経済的に苦しい立場にいる、もう一人はお金あるけれども社会の現実をよく知らない、そういういろいろな立場にある人が集まる中で、多様な声が生まれ、その声が共有されることである種の民主主義的なエクササイズができると思われているわけですね。

鎌仲:それは「ペーパー・タイガー」をやったときに、ものすごく多様な人たちが集まって、一人一人の意見を優劣をつけずに全部聞くということをそこでやっていたんですよ。毎週水曜日に 10 人集まったら、10 人一人一人が自分の意見を言うと。それを絶対遮らずに最後までみんな聞くからものすごく時間かかるんですよ。本当にこんなことで番組ができるのかと、なんか作品を一つ作ることができるのかと思うぐらいにものすごく時間のかかる作業を一つ一つやっていく。それが民主主義だと、私は学んだので、だから、民主主義はそういう面倒臭いことなんだ、と私は思っているんですよね。

平野:民主主義って、日常的な文化の営みや実践の問題なんですよね。

鎌仲:首相官邸前で叫ぶのはすごく大事。でも日々やっていくということがそれ以上に大事だと思っています。

平野:民主主義社会を作るということは本当に時間のかかることだし、しかも作ったから終わりですじゃなくて、それを持続していかないと消えちゃうような話でしょう。

鎌仲:誰かに「ああしろとかこうしろ」とか言われるんじゃなく、「これは自分たちでやんなきゃダメだな」とみんなが感じることなんですよね。そう思ったら実際やり始めるし、みんな能力もあるし、思考力もあるし、行動力もある。そのような自覚をもち、繋がっていける人たちは、物凄く出来る様になって行くわけですよ。

平野:それは、そういうポテンシャルが今まで許されてこなかったというか、自分にもそんなポテンシャルがあるということすらも知らない人たちが大勢いるということでもある。もし、民主的な社会を各人が日常生活で感じること考えることを何かしらの方法で表現し、伝え合い、練り上げていく、また行動に移していく社会と考えた時、そのような文化が戦後日本の社会できちんと築いてこれたのかどうか。

鎌仲:築けなかったとおもうよ。自分が自由だ、つまり自由に感じ考え表現し、それにきちんと責任をとって生きていいのだという意識が希薄なのだとおもう。

というか自分が自由に表現して良い存在だ、それによって人のポテンシャルは活かされるのだという風にどこからも習ってきてない。原子力発電の歴史は、そのような政治文化の上に成り立ってきたし、それをさらに強化することになってしまった。

そして、日本の教育は、そのようなポテンシャルを封じ込める。あなたは自由なんですよって、自分で決めていいんですよって、自分で思ったことや感じたことをこの場で言っても誰からも傷つけられないから、みんなそれを聞くから、その意見は尊重されるから、この場ではみんな自由に発言していいんですよ。それを日本の教育は育ててこなかった。だから、上映会の後をそのような場にしたいんですよ。

平野:そこにもう一つ大事な原理は、我々はあくまでも対等で平等なんだという原理ですか。

鎌仲:そう、優劣がないということ。男であろうが女であろうが、年をとっていようが若かろうが。大卒であろうが、なかろうが。フラット、水平に。私たちは対等な存在ですよねって。

平野:ディスカッションをやった後って、みんな解放されたような感じになりますか。

鎌仲:すごい満足して帰っていくね。なんとなくすごく満たされた、すごく力をもらったというか。

平野:エンパワーリングなんですね。鎌仲:エンパワーなんです。

平野:そのエンパワーされるというか、できるんだという経験が封じ込まれてきてしまったということ。

鎌仲:そうそうそう、それを封じ込めたい側がいるんだよ、議論して繋がって

「意識の化学反応」を起こすことを封じ込めたいわけですよ。だから福島の人が放射能が心配だ、放射線の影響はどうなんだろう、子供は大丈夫だろうかという感情を抱くということ自体が、心配する状態に追い込まれたこと自体が被害だから、それについて語るということは被害をきちんと言語化して訴えていることに他ならないんですよね。

だからそのような訴えが共通の意識を意味だし、運動となっていくことを封じ込めたい。心配だと思っているお前がどうかしているんだと。それは、お前が無知だからだぞ。そんなこと言ったら風評被害に加担することになるんだぞと。そん

なこと言ったらお前が差別側に立つことになるのだぞというふうに封じ込めて、被害を訴えるという声そのものを根こそぎ摘み取ってしまう。

平野:鎌仲さんの作品の中でいつもいいなと感銘するのは、それこそ推進派も反対派も含めて、いろいろな人の声が対等に平等に紹介されるでしょう。

しかも、ちょっと学術用語で言っちゃうとポリフォニー、多声音といって音楽理論の用語からきているんですけど、多様で時に対立する自立した旋律が交差し、ぶつかり合い、反響し合うような状態、それをポリフォニックというんですけれども、映像をとる時に、それをいつもイメージしているんですか。

さらに、鎌仲さんの映像は、いろいろな声が響きあったり対立したりぶつかりあったりする中で、観ている人間はその中でいろいろな話を読み解いていくことができるわけですよね。これってまさにドキュメンタリーの持つ民主的な可能性、観るということが民主的なエクササイズになるんだという構成になっている。

鎌仲:観ること自体がね。

平野:そう、それ自体がね。そのことは、すごく意識して作られていますか。鎌仲:はい。

平野:やっぱりそうですか。敢えてそういう構造にしている。

鎌仲:うん、そうね。というか、私のメッセージよりも映画に出てくる一人一人が発するメッセージの方に重きを置いているわけ。私はそれをいかに聞き取るかというか、聞くかというか、受け皿を用意しているわけで、日本の社会の現実の中には開かれた言論空間というものがあまりない。

多様な声を響き合わせるようなところがあまりないので、『六ヶ所村ラプソディー』にしても推進している人と反対している人が実際言葉を現実の中でかわすわけではないわけだけれども、私の映画の中で共存することでその声が響きあうということが可能になるわけですよね。

平野: ご著書で書いてあったけれども、ドキュメンタリーを見た後に六ヶ所の住民は本当に対話し始めるんでしょう。

鎌仲:そうそう。

平野:すごいことですよね、それって。

鎌仲:私は作品を作るだけじゃなく、「その後」ということをとても大事にしています。『六ヶ所村ラプソディー』のその後の『六ヶ所村通信、NO.4』ってい

うのをつくっています。実際対立する人たちが、対話し始める。それが草の根で起きるということが大事だと思っているんですよね。だからファシリテーターになりたい。

平野:鎌仲さんは、作品でも生き方でも対話をすごく大切にされていると思うんですね。作り方ももちろんさっきおっしゃられたように、彼らが何を言いたいのかをまず聞いて、聞くということから始まって対話を生み出すでしょう。そして今度は見る人がそれを観て対話するじゃないですか。そしてまた観た後にディスカッションで対話するじゃないですか。対話の連鎖を作り出している気がするんですよね。

鎌仲:うん、そうですね。なんか一人が沈思黙考しても大したアイディアは出てこない、という私の体験からきているんですよ。本当に人は全く異質な誰かと対話することで、すごくインスパイアーされるし自分の中に未知の声を発見することも多いので。似た者同士が心地よくいたんじゃダメなんですよ。日本の社会の中で足りないのはそこだと思う。私も教えている学生たちに言語化することの大切さを強調しています。若い子たちは、イメージでしか語らないというか、なんかすごく、もやっとした物言いでごまかしていくでしょう。だからそれを言葉にしていくことの大切さを知ってほしい。わたし、武藤類子さんの言葉ってものすごく的確だと思うのよね。本当に感心します。

感性の革命:暮らしの「政治」

平野:ひとつお聞きしたいのは、新しい市民運動について書かれたことで、「感性の革命」とか「足元からの革命」という言葉を使っていらっしゃるでしょう。新しいあり方の可能性についてちょっと話していただきたいんですけど、お話を聞きながら、もしかしたら映画の作り方にもすごく関わってくる問題なのかなと思うんです。 

60年代70年代の政治運動というのは、組織があって、先頭を切るリーダーがいて、党派性があって、右か左かをはっきりさせてみたいな、そういうところで動いてきたじゃないですか。誰が正統で正統じゃないみたいな話になってくるじゃないですか。いま、それとは全然違う時代が来ていて、鎌仲さんが作っている映画の方法もそうだし、その広がり方も新しい運動のあり方がすごく反映していると思うんですね。その可能性についてもう少し話していただけますか。この鎌仲さんがおっしゃる「感性の革命」とか「足元からの革命」とかについて。

鎌仲:やっぱり暮らしだと思っているのね。日常の暮らしの中から、本当の変革は始まるのかなと思うんですよ。大きな歴史の法則とか、教義とかではなくて。そういった意味で、武藤さんと同じように、「おんな」という感性を信じています。暮らしを一番身近に生きているのは女性だと思うので。都会で生きていよう

が地域で生きていようが、ご飯を作ったりとか洗濯をしたりとかゴミを分別したりとか。自分がどんなゴミを出しているのか、というのはどうしてもゴミを出す人が意識するんですよね。食事も、どんな食材を使うべきか。安全か、健康かなど。あるいはどんな洋服を選ぶのかとか、そこにエシカルな考え方があるかどうかということも。そういう全ての暮らしを総合して自分は幸せだと感じるんだと思うんですよ。幸福感というのを。

暮らしを守るというのを一番根っこからやっているのは女だから。もちろん、そこにジェンダーの差異が本当はあっちゃいけないのかもしれないけれど、現実社会のなかでそのような立場にあるのは圧倒的に女であることは否定できませんから。だから暮らしから出てくる運動が一番長続きするんじゃないかなって。暮らしに可能性を見出すというのは、古いようで新しい。

私が『エンデの遺言 − 根元からお金を問う』(1999)という番組を作った時、テレビ番組としてはものすごく異常なほど反応があって、お金とはなんなのかって。お金で全てが交換できる、お金で代替できるというように、日本社会が価値観を変貌させてきたことを考え直して、お金がなくても暮らしを支えることができるライフスタイル、そういうちょっと理想郷みたいなことを考え始めたんですよね。

それはやっぱり支え合う関係、お互いを尊重しながら助け合う社会。そしたらそれを実現できるのは都会ではなく地域で生きるというふうになって、特に『六ヶ所村ラプソディー』を観た若者たちは地方への回帰というか、そんなことを始めたんですよ。それが今回の原発事故ですごく加速したんですよ。私の映画を観ていてそれで移住を決意しました、という若者がいっぱいいます。思考錯誤して苦しんだりとか失敗してる人たくさんいるけれども。

食べ物への関心もすごく高まった。どこから来るのかとかね。だからライフスタイルを見直していくっていうことからしかエネルギー転換もできないし。エネルギーっていうのは電気だけじゃないですからね。食べ物もそうだし、移動もそうだし、自分の暮らしがどういう暮らしなのかということを検証していくということから出てくる感性。

平野:それが「感性の革命」なんですね。自分の日常生活とかライフスタイルを支えていた価値観、幸福感とかをもう一度見つめ直すということ。

鎌仲:これまでの価値観のままでは生きていけないと感じることが大事なことな んですよね。だからそこは頭でわかったことと、実際自分の肉体が動くこととは、またすごく時間がかかるのでね。

でもまず意識が改革されなかったら、いつまでも常識にどっぷり浸かって自分の生き方を手にしていけない。自分の暮らしってこれでいいのか、こうやって過剰

な物質的な金銭的な豊かさをただ追い求めて生きていくことは、どこかに犠牲を 生み出しているし、自然環境を破壊する構造に加担しているんだいうことに気が つくこと。一人一人の中にそれが起きることが、革命的なんだと思うんですよね。

平野:なるほど。それが鎌仲さんのいう「当事者意識」というものでしょう。

鎌仲:そう、現代社会に生きる限りなんらかの加害性を持って生きざるを得ないんですが、その加害性をいかに減らしていくのかということができないといけないなと思うんですよね。で、そういうことに気がついた仲間が、私よりももっと若い人たちが 、私はこういうふうに暮らしています、という情報をすごく素敵にね、ネット上で交換し合い発信し合ってます。

だからそれが実は一番政治的なんですけど、私はそれを政治とは呼ばずにやっていきたい。

 

保養:学び合うことの希望

平野:鎌仲さんの現在の関心は、現在進行形の被曝からできるだけ多くの人をどう救済するかということだと仰ってましたよね。『小さき声のカノン』の場合だと保養ということが一つの解決策、というか救済の可能性として描かれている。 

鎌仲:うん、そうだね。実際対策としてね。そういう一つの対策とか可能性を提示していくというのは、ポジティブに解決したいという思いがあるから。だからただ問題を叩きつけるだけじゃなくて、その問題を人間としてどう取り組んでいくのか、どう解決していくのか。そこでとても重要になるのが、やっぱり先人の知恵だよね。

ベラルーシのお母さん達は、27 年 8 年 9 年を格闘してきた人たちなんだから。それで今、福島で同じことが起きているわけだから、彼女たちの格闘から学べることはたくさんあるわけだよね。

平野:ベラルーシと福島をつなげて考えようと思ったのは、ベラルーシの市民たちによって保養という取り組みがずっと行われてきた事実を知っていたからですか。

鎌仲: 今起きていることは低線量の慢性的な内部被曝だから、それと同じことが起きていたチェルノブイリでは、みんなどうしてきたのかをとても知りたいと思った。

平野:ベラルーシと福島比較は本当に効果的だったと思います。今、福島のお母さんや子供達が一番知りたいのは、どうすれば内部被曝の可能性や影響を減らす

ことができるのかということですよね。特にすごく心理的に追い込まれている人たちにとっては、暗闇のなかの希望の光みたいな意味を持っている。

鎌仲:そうだよね。やっぱり人間が人間から学ぶことを諦めない。

平野:そうですね。人間の経験や知恵を信じるという姿勢は、鎌仲さんのドキュメンタリーの力強いところですよね。

鎌仲:人は失敗や試行錯誤から多くを学ぶじゃないですか。だからドキュメンタリーの一つのベーシックな考え方として、単純にジャッジメンタルにならないこと。相手をジャッジしないということがとても大切。人間ってすごく矛盾を抱えた存在だから。だから矛盾そのものを冷静に把握した時に、より本質的な問題やその解決方法が見えてくるんだよね。何がその矛盾を生み出しているのかとか、そういう矛盾を生きざる得なくなっている人間のあり方とか。自分がその渦中にいるときはよくわからないけれど、人を客観的に見ると、自分を見るようにすごくわかるでしょう。私の映像の方法はそういう効果を狙っています。

だからジャッジメンタルじゃないから、どんな立場であろうと平等に、対等に声 を拾い上げていきたい。対等であることが物事をすごくシンプルに見せてくれる。

平野:シンプルなんだけど、すごく入り組んだ話を見せてくれるでしょう。鎌仲:うん、そうなんだよね。

平野:だからそれがはっきりわかるという意味のシンプルさでしょう。鎌仲:そうなんですよね。矛盾が矛盾として立ち上がってくると。

平野:単純に善悪で分けられない世界みたいなものを見事に見せるでしょう。もちろん鎌仲さんの立場はきちんとあるんだけれども、それを押しつけたり、いきなり結論に飛ぶのではなくて、入り組んでいる現実を見せてくれる。そうすると自分は同じようなジレンマや矛盾を抱えながら日常を生きているということを映像を見ている方は突きつけられるでしょう。そしてあなたはその時どうするの、みたいな話になってくる。

鎌仲:そうそうそう。でみんな自分に引きつけて考えるということがすごく大事で、それが一番できていないんじゃないかなって思う。今の日本社会は共感性を断ち切って、サバイバルにのみ人は夢中になっている。いちいち人に共感なんかしてられないよってね。それは大きく言えば非常に寂しい社会。いっぽうで、愛国心やナショナリズムのような歪な共感性だけが鼓舞される。だから映像をとおして学び合い、つながり合うことから生まれる共感性や希望を信じてやっていきたいね。 

平野:残念ながら時間切れです。今日はほんとうにありがとうございました。